2008, 3月 の記事

評価をするその前に

東京裁判 (講談社現代新書 1924)
日暮 吉延
4062879247

1945年の敗戦によって日本は、明治維新以降の約80年間に近代的国家として積み上げてきたもののうち、かなりの部分を「リセット」してやり直すことを余儀なくされた。

敗戦国がそういう「出直し」を強いられるのは、古今東西普遍的な現象ではある。
しかし、日本の場合には、この「リセット」が「国家が無条件降伏する」という苛烈かつ異例な形式で行われ、戦勝国(アメリカ)に安全を担保してもらいつつ経済発展を優先して豊かな生活を獲得するという方向を(結果的に、かもしれないが)選択してきた。
このため、この「出直し」の本当の意義について、冷静に議論することが未だにできていない。

いわゆる「東京裁判」は、戦前日本の「リセット」を象徴するもののひとつであり、特に戦前日本がとってきた行動が先鋭的に凝縮された「大東亜戦争」に対する評価がぶつかり合う舞台であるだけに、約60年経過した今も日本国内で客観的・公平な議論が行われているとは言い難い。

歴史上の事象について、それを「肯定」するか「否定」するかの「価値判断」「評価」は必ずついて回るものだが、東京裁判についてはその「評価」を行う以前の「事実認識」が必ずしも正しくない場合が多い、とこの本の筆者は述べる。

その認識に基づいて筆者は、東京裁判の実像を「事実」を積み上げることによって描き出している。

筆者は東京裁判を、その当時の国際情勢を映し出した「国際政治の縮図」としてとらえている。それは当然、複雑多様な利害・思惑・感情etc.が絡み合っており、単純に肯定/否定で割り切れるような世界ではありえない。
この本を読むと、東京裁判の全体像を近・現代史の流れの中にどのようにとらえるべきか、かなり公平な視点を得ることができるはずだ。

と同時に、東京裁判を肯定するにしろ否定するにしろ、「評価先にありき」の東京裁判論が総じていかにナイーブなものであるかがよくわかる。

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2008-03-31 11:45 pm | Backstage/ 書評 | 1 Comment »

「色の道」は険し

友人のマスナガさんのブログに興味深いエントリがあったのでTB。

元ネタはDolores Labsの「Where does “Blue” end and “Red” begin?」というエントリなんだけど、要するに「どの色が、どの呼び名で呼ばれているか」 を調べて視覚的に表現してみよう、という試み。

で、その成果が↓。

080319colors_2.gif
(クリックで拡大)

color label explorer」を使うと、さらに正規表現を使って絞り込んで見ることができる。

これでとても興味深いのは、どう見ても違う色が同じ色名(たとえば「blue」)で呼ばれる場合がある、ということ。

たとえばよく言われるのが、日本の交通信号の「青信号」。
欧米人に言わせると、あの色は「青(blue)」ではなく「緑(green)」だ、ということなのだが、このチャートを見ると英語圏の人でもあの「青信号の色」を「blue」と呼ぶ人がいるんじゃないか? と思える(上記「color label explorer」で「blue」と入れてみてほしい)。

さらに、英語で色を表現するときには、結構みんな好き勝手に単語をつなげて表現してるように見える。
日本の場合は、少なくとも理工学系の分野によっては、色名を付けるときの「お作法」が結構しっかりと決められていたりするんだけど、英語ではそういう決まり事ってあるんだろうか?

他にもいろいろと思うことはあるのだが、キリがないのでこの辺で。

大学時代に鉱物学の教授が、「先生、この色は何色って呼べばいいんですかね?」と尋ねられて、「色を厳密に表現しようとしたら、『波長何とかナノメートルの光の色』というように表現するしかない。『色の道』ってぇのは難しいんですよ」ってなことを言っていたが、確かにモノの「色」を表現するのは難しい。

厳密に言えば、明度・彩度の要素も入ってくるし、モノの表面の質感も色をどのように感じるかに影響してくる。

これを異なる言語間で置き換えて表現するなんて、実はかなり無茶な所行なのではないだろうか(いや、ホント難しいんですよ、色の名前の翻訳って)。

ま、それでも英語から日本語への翻訳はまだラクかも。
イザとなれば、カタカナ書きにすれば通じる色名も多いし。

しかし、↓これを英語に訳すのは、ほとんど不可能なんじゃないかな。

日本の伝統色

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2008-03-27 10:01 pm | 全般/ 翻訳・言語四方山話 | No Comments »

「文章」を「文書」にするためのガイドブック

スタイルガイド―英文書作成と編集のためのルールと常識
藤岡 啓介

翻訳の仕事に限らないが、誰かに何かを文章によって伝えようとする場合に、その文章がきちんと書けているだけでは十分でないことが多い。
と言うか、文章で何らかの情報を伝達するに当たっては、ほとんどの場合、言葉として意味が正しく伝わる文章が書けているのは最低限の条件であり、その文章をきちんと「文書」として構成することが要求される。

親しい関係の友人とやり取りするメールであっても、そこには意志の伝達を正しく行うために(意識しているか否かの違いはあっても)一定のルールが存在している。
ましてや、実務的な目的でやり取りされる文章では、きちんとした「ルール」に則って文書化することが不可欠。

これは英語の文書でも当然同じこと。
ここに紹介した本は、アメリカの軍用規格のひとつ「Technical Writing Style Guide」を翻訳したもので、英語の実務・技術系文書を書く上でのガイドとして、おそらく最も広く活用されているもの。
確かにここに書かれていることに気を付けながら文章を文書にしていくと、見た目に把握しやすく内容も理解しやすくなる。

いわゆる「テクニカル・ライティング」に関する参考書には、さらに詳しい解説をしているものもあるが、基本のリファレンスとして間違いのない1冊、ということになるとこの本になるだろう。

残念なのは、この本が現在版元品切れ(?)で入手困難なこと。Amazonではマーケットプレイスでしか手に入らないようだし、定価に比べて結構な高値が付いている。

何とか再版してもらいたいものなのだが……。

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2008-03-23 10:25 pm | Bookshelf/ 一般辞書・参考書 | No Comments »

「信じる」と「依存する」

菊池誠さんと香山リカさんの対談「信じぬ者は救われる」。

菊池さんはいわゆる「ニセ科学」批判では代表的な人だし、香山さんは精神科医をいう立場からなかなか興味深い社会分析をして見せる人なので、この二人がニセ科学や「スピリチュアル・ブーム」について語る、というのは面白いと思う。

信じぬ者は救われる
香山 リカ 菊池 誠
4780301556
で、実際に読んでみての読後感は、正直なところ「う~ん……」と言う感じ。
実はしばらく前に読了はしていたのだが、そういう感触が残ってしまっていたため、ここで書くのを先延ばしにしてしまっていた。

菊池さん自身やその他の方々も言っていることだけど、二人の対談を読んで最も印象に残るのは、「なんであんなモノを信じちゃうんだろうね、困ったもんだね」と言う「困惑している感じ」なんですな。

まぁ、これはある意味で当然の帰結なのかもしれない。

ニセ科学やスピリチュアルなんとかのように不合理なものを「信じてしまう」のって、ある種の「依存」なんだと思う。

こういうものを信じている人というのは、大抵の場合、自分が(道徳的に、あるいは自身の健康・自然・環境にとって)「良いことをしている」と思いこんでいる。
こういう「自分は良いことをしている」という思い込みには、麻薬的な作用があるからねぇ……。

ただ、こういった「依存」に陥ってしまう可能性は、人間ならば普遍的に持ち合わせているものだ。

中島らも氏が小説の中で、「人間は必ずどこかが『欠けた』存在なのであって、その欠けた部分を埋め合わせるために、多かれ少なかれ何かに依存して生きている」という意味のことを書いている。

確かに、自覚しているか否かと、依存する対象と程度が人によって異なるものの、人間生きていくにはなにがしかの支えを必要とする。
「依存」は人間存在の本質である、と言ってもいいのかもしれない。

結局、「なぜ、あんなものを信じてしまうんだろう?」という包括的な問いは、「なぜ、人間はなにかに依存せずに生きられないんだろう?」という問いとパラレルになってしまう。
要するに、あまりに本質的すぎて答えられない問いなんじゃないだろうか。

お二人の「困惑」の原因はここにあるような気がする。

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2008-03-17 10:20 am | Backstage/ 書評 | No Comments »

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