Twitterでこんな記事のリンクが流れてきた。
英語なんて話すな、と思う時。
いろいろと思ったことがあったので書き留めておく。
これを読んで、鷺沢萠がこんなことを書いていたのを思い出した。
誰でも見たことのある風景だと思うけれど、たとえば駅の改札口などで、外国人が駅員に何かを訊ねている。その人は日本語が喋れなくて、なかなか訊きたいことの答を得られずにいる。
鷺沢萠「ケナリも花、サクラも花」より
そのうち彼が両手を天に向けて「やれやれ、しょうがねえな」というしぐさをしたら、それはアメリカ人だ。アメリカ人は「人間だったら英語が話せるのはトーゼン」という甚だ傲慢な意識を持っているので、「日本語を話せない自分」に対してではなく、「英語も話せない駅員」に対して苛つくのだ。
これ、25年ほど前の話なんだが……。
リンク先の記事を読むと、英語母語話者の中にこういう「傲慢さ」をさらに肥大させている層が結構いるのかもしれない。
特にインターネットの普及以降、英語の「国際共通語」化はすさまじい勢いで進んでいる。
「国際共通語を母語とするワシら」という感覚が英語母語話者の中に膨らんでいても不思議ではない。
「言葉」は不自由な道具
英語に限らず「言語」というものは、コミュニケーションの「道具」である。
ただし、多数の人が共同で使うものなので、人々が一定のルールを共有した上でなければ機能しない。
どこかの学会で座長が「ここでの共通語はpoor Englishなので、そのつもりで議論するように」と述べて非常にウケた、というような話があったりする。
poorな英語であっても、きちんとルールが共有された場で使われるのであれば十分に役に立つ。
反対に、英語を母語としない国や地域では、そもそも「英語を使う」というルールがないので、英語はコミュニケーションの道具として機能しない。
結局、言葉というのは「相手との協力がなければ役に立たない道具」なのだ。
当たり前のことではあるのだが、英語だけを通して世界を見ていると、ものすごく簡単に見落としてしまいやすい点なんじゃないかと思う。
「言葉ができる」の本当の意味
日本人の英語に対するメンタリティも、本質的なところでは上に書いた英語母語話者の「傲慢さ」と通底しているところが多い。
「英語ができる」ということだけでマウントをとろうとしたり、逆に「英語ができないとヤバい」みたいな強迫観念にとらわれてたり……。
「コミュニケーションをとろうとする相手」をきちんと想像できていれば、こういう馬鹿げた態度が有害無益であることは簡単にわかるはず(でも、こういう人たち、多いよね)。
英語は確かに便利だが、それは別に「英語ができる」から「えらい」ということを意味するわけじゃない。
「使う言葉が違う人とコミュニケーションをとれる/とろうとする」のが「えらい」んですよ。