togetterにこんなまとめが上がってました。
発端はこのツイートに書かれている内容。
もういちどポイントを整理しますと、➀わたしの経験上、欧州圏ではそこの国の言葉ができなくても英語さえできれば「どうにかなる」、②同じことは中南米でも言える、③もちろん各国の言葉ができるにこしたことはないが、とりあえず英語さえ最低抑えておけば(短期滞在なら)「どうにかなる」。以上。
— TrinityNYC (@TrinityNYC) 2015, 5月 23
「英語だけ」で何とかならない国、日本
それに引き換え日本は……、という話になるワケですが、これに反発するコメント・ツイートも結構多く、喧々囂々の議論(?)になっております。
反発の中には「いや、『英語だけで何とかならない』のは日本だけじゃないし」という趣旨のものが結構あります。
しかし、私自身の経験だけから考えても、日本の状況は「ちょっとこれはマズいんじゃないの?」と思えるレベルです。私が住んでいる広島は、世界遺産を2ヶ所かかえて外国人観光客も多いのですが、「まだまだだなぁ……」と思うことが多いですし。
首都圏や京都などの外国人が「鉄板」で訪れる地域は多少マシかもしれませんが、観光地で外国人旅行客への対応を第三者として見た経験からすると、まとめのタイトルの「日本ほど英語の通じない国はない」はあながち大げさ/デタラメとは言えない気はします。
で、なぜこんな状況になっているのか(プラス、それに対する批判になぜこういう反発が起こるのか)、つらつら考えてみたんですが、「どうも日本では、未だに『英語はよそ行きの言葉』と思われているんじゃなかろうか」ということに思い当たりました。
「英語は『よそ行き』の言葉」のイメージ
英会話教室のCMって、たとえば海外旅行に出かけた先で現地の人とどーのこーの、みたいな「外国を訪れる側」として英語を使うシーンがメインになっているのがほとんど。
かと思うと、某プロゴルフ選手が海外でインタビューに応えている映像を使ったり。
子ども向けの教室・教材であれば、「いかにも」な子どもが「将来は何になりたい?」ってな質問にお行儀よく流暢に答えていたり。
これがおそらく、「英語を使う」ということに対する日本人の平均的なイメージなんでしょうね。
こういう「『いかにも』なよそ行きのイメージ」に対して、「英語? 自分には関係ないし」「けっ、英語なんて……」といった反発が一定の割合で生まれるのはとても自然なことのように思えます。
でもねぇ……。
日常の延長として「迎える」側の言葉として
日本は、2020年にはオリンピックを開催するんですよ。
世界遺産の登録件数は、アジア第2位なんですよ。
政府も2020年までに外国人旅行者を年間2000万人(現在の約2倍)にしようとしてるワケですよ。
好むと好まざるとにかかわらず、「英語を抑えておけば(どこでも)何とかなる」というのは世界的にある程度の共通認識になっています。
ぼちぼち、英語を「外国から来た人を迎える側として使う言葉」としてとらえる意識も必要なんじゃないですかね?
「旅行客」と「日常の延長として旅行客を迎える側」という異なる立場では、同じ英語というツールでも使うときのマインドセットは違ってきますしね。
これからホントの意味で「国際化」していこうとしたら、こういう「よそ行きではないところで使う英語」についての意識が重要になるんじゃないでしょうか。